上杉鷹山-米沢藩の改革

幕末に会津藩、仙台藩とともに奥羽列藩同盟を結成し、新政府軍と戦うことになった米沢藩。

江戸中期には、米沢藩の財政は破綻寸前となり、藩主は、幕府へ領土を返そうとしたほどだった。

ここで現れたのが、16歳の少年、上杉治憲(後の鷹山)だ。

上杉鷹山は、遠く九州宮崎の小藩高鍋藩秋月家から上杉家へ養子に来たのだった。

その頃の米沢藩。

戦国の英雄、上杉謙信の時代の百二十万石の構えを崩さぬプライドと見栄を持っていた。

家臣も往時と同じ6,000人も抱える。

しかし、実際には、当時の石高は、十分の一程度の十五万石になっていた。

莫大な借金もでき、米沢藩の「金欠」ぶりは、江戸でも有名になっていた。

上杉鷹山は、藩の再建を誓い、徹底した経費の削減、木綿の服、一汁一菜の倹約とともに、殖産興業、新田の開墾、漆・桑・楮(こうぞ)などの増産を奨励した。

さらに五十年計画で、籾(もみ)や麦を貯蔵した。

こうした政策によって、東北の大飢饉の際にも、一人の餓死者も出なかったと言われる。

江戸中期から諸藩の経済は、急速に崩壊へと向かっていた。

そうした中で、藩を再建した上杉鷹山を、幕府の老中松平定信も「一代の賢君」と尊えた。

内村鑑三が著書「代表的日本人」の中で描いた政治家上杉鷹山の姿は、アメリカ大統領、ジョン・F・ケネディ、ビル・クリントンの心もとらえた…。

近年の調査で、自治体の長からも、理想のリーダーとして圧倒的な支持を集める上杉鷹山。

今、鷹山公にならって、「成せばなる」という気概と実行力がリーダーに求められている。

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この記事を書いた人

 劇作家の井上ひさしさんの「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを楽しく」という言葉が好きです。さらに付け加えるとすれば、「そしてシンプルに」となると思います。
 松下幸之助さんの「経営とは、生きた総合芸術である」という言葉をラーニングデザインによって研究して、お届けしています。
 著書「直観でわかる経理のしくみ」(新版)、「直観でわかる人事のしくみ」(共著)いずれも東洋経済新報社刊など。
 経営ラーニングデザイナー。公益財団法人日本生産性本部認定経営コンサルタント。価値創造研究所所長。㈱ラーニングデザイン・アソシエーション会長。社内研修プログラム「ワールドフェイマスプログラム」開発責任者。

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