コミュニケーションに関する「5つの公理」というものを打ち立てた人がいる(ポール・ワツラウイック)。
その第一公理が、
「人は、コミュニケーションしないわけにはいかない」だ。
さらに、
「すべての行動がコミュニケーションになる」ということも導かれる。
人間は社会の中で生きているので、他の人と何かしらの関係を持つ。
そこに必ず「コミュニケーション」というものがある。
もし、人と離れて、山奥に一匹の犬とともに暮らすとしても、
犬との「コミュニケーション」がある。
犬がいなくなって一人で生きていくことになったとしても、
自然と、あるいは、(神のような)何かと、
あるいは、自分と対話(コミュニケーション)をすることになるだろう…。
また、例え、「無言」であっても、それは、一種の「コミュニケーション」になる。
話をしていて、相手が急に黙り込む。
「どうしたのだろう?」
「何か気に障ったのだろうか?」
「身体の具合でも悪くなったのだろうか?」
相手の「無言」という「メッセージ」をいろいろと解釈せざるを得なくなる…。
「無言」というのも立派な「メッセージ」なのだ。
その他にも「しぐさ」や「態度」や「目線」、これらもすべてが「メッセージ」になり、
「他者に何かを伝えること」であり、「他者が何かを感じるもの」になる。
自分のすべての行動が「メッセージ」に、そして「コミュニケーション」になってしまう。
「人はコミュニケーションをしないわけにはいかない」